2020年07月02日より
山本芳美(都留文科大学)
2019年から顔身体学の公募班として採用され、トランスカルチャー的な側面からみたイレズミの研究に従事している。この原稿を書いている2020年6月25日現在、沖縄や台湾などでの調査や資料整理プロジェクトは止まってしまっている。世界ではCOVID-19の第2波が来たとされ、900万人が感染して47万人がなくなっている。研究活動も確実に余波を受けており、英国の研究仲間Matt Lodderさんが参加するはずだった東大での5月のシンポジウムは中止となった。フレンドリーなマルタのタトゥー研究者、Pierre Portelliさんもお嬢さんと5月初めに来日するはずだったが来られなくなった。
このお手上げ状態に、「文化人類学者を殺すにゃ、刃物はいらない。調査ができなくするだけ」と天を仰いでつぶやきたくなる。文化人類学は資料を読み込むほか、現地滞在のフィールドワークをおこなう。言うまでもなく、フィールドワークは、受け入れ先やインタビュー相手となる人々の協力が前提となるため、現地に出向けたとしても対面調査はやりにくい。
ロックダウンという言葉が政治家、専門家、マスコミや職場で交わされはじめた段階で、今後、数年はフィールドワークができないかもしれない、都内での資料集め程度の外出も難しくなるとの可能性を覚悟した。2003年3月まで留学していた台湾でSARSの流行に遭い、その際に旅行医学のハンドブックを読んでいたので、これから各地でロックダウンが起こることと渡航できなくなることが、素人ながらも予測できた。
今までなら、前後のスケジュールから無理があっても、3日あれば沖縄や台湾に行って帰って来られた。昨年監修した「沖縄のハジチ、台湾原住民族のタトゥー展」(沖縄県立博物館・美術館で2019年10月から11月に開催)では、周囲の人々から「過労で死ぬんじゃないか」と心配されながらも、準備やイベントのために強行軍で沖縄を往復した。現在は、そうしたこと自体がはばかられる状況である。
一方で、大学教員としての仕事にも変化があった。勤務先は山梨にある公立大学法人であるが、全国各地から学生が集まるという特徴がある。実家にとどまっている学生もいるので一部の授業を除いて、遠隔授業を続行中である。現在、学生も教員も慣れない授業に疲弊気味となっている。特に心配なのが1年生で、4月から大学付近ではじめての一人暮らしをしながらも、一度も同級生と顔合わせできていない。SNSを駆使して学生たちがつながってくれることを期待したが、今時のシャイな学生には難しいらしい。東京都内ではいまだ教職員、学生ともに入構すらできない大学もあるが、大学施設の一部や図書館が入れ替え制や予約制ながら使えるようになった。
コロナ禍で取り戻した研究生活
さて、これまで書いたことは、他の書き手とも共通していると思う。実はこうした状況になり、東京オリンピックが「延期」となったことで、人々の関心が薄れてしまった問題がある。それが「温泉タトゥー問題」である。
温泉タトゥー問題は、温泉やスーパー銭湯などの温浴施設、プール、スパ、ジムなどで、イレズミ・タトゥーのある人が入場をお断りされてしまう現象である。2019年のラグビーW杯、2020年の東京オリンピック、さらに2025年の大阪万博の開催が決まり、インバウンド(外国人観光客)の招致に日本政府が本腰を入れ始めた2013年ごろから顕在化しはじめた。イレズミ・タトゥーがある人の利用制限は、もともと日本人でイレズミがある人へ施設が提示していた「ハウスルール」であった。タトゥーがある外国人も対象に含まれるようになり、「対応が遅れている」と問題視されたのである。
筆者個人には、ラグビーW杯が開催された昨年2019年11月ごろまで、温泉タトゥー問題について、週一回の頻度で、新聞やweb媒体から取材申し込みが続いた。筆者自身も3月末に国際シンポジウム「イレズミ・タトゥーと多文化共生――「温泉タトゥー問題」への取り組みを知る」を開催し、勤務先大学でも学生たちと小規模なシンポジウムを7月に催した。さらに、昨年の企画展では、クラウドファンディングも展開していたので、沖縄県内での取材やラジオ出演を引き受けていた。
オリンピックが予定通りに開催されていれば、おそらく温泉タトゥー問題の取材は、開催終了時まで続いただろう。ところが、気がつけばマスコミのインタビュー取材は、11月の共同通信社が最後になった。この取材は温泉タトゥー問題に関するもので、コロナ禍で関心はすっかり薄れている。
取材が一段落したこともあり、身辺が落ち着いたこともあり、現状を見据えた研究に切り替える覚悟を決めた。ここ数年かけて調べていたテーマについて、今年度の脱稿を目標に総まとめ的論文を執筆する準備をしはじめた。3月中にいくつかの大学図書館や資料館に急いで通った。これまで確認できていなかった論文や雑誌記事をかき集めた。
3月末に赴いたある資料館で、私の研究にとっては貴重な資料群を見つけた。たとえ、国内外でフィールドワークができなくても、その資料の研究と分析をする目標を持つことができた。しかし、絵画資料が主で、自らの視点だけでは研究しきれない資料でもある。であるならば、顔身体学の枠組みで日本語・英語の解説を併記したデータベースを構築しようとの構想を抱くようになった。撮影とデータベース編成は経験が豊富な沖縄の企業に委託することでクリアする。完成後は勤務先大学のリポジトリで公開することからはじめ、同様の資料をもつあと2つの機関にも声をかけて、3つの資料を統合させたデータベースをつくる。各機関は私立・公立であり所蔵と公開方針もあるだろうから、現実的にはそう簡単にいかないかもしれない。それでも実現すれば、初の試みとなるのでまずは折衝から動き始めている。
With コロナ時代に、「温泉タトゥー問題」はまぼろし
さて、温泉タトゥー問題に話をもどそう。筆者は温泉など各種施設がタトゥーをした人を締め出す根拠は、ますますなくなっていくとみている。温泉や温浴施設に来るインバウンドが、当面は期待できなくなる。客は近場の人々が中心で、営業時間が短縮されるうえ、短時間の滞在になっていくであろう。長い巣ごもりが解けて温泉や温浴施設などを訪れても、当座は時間をかけて利用する人々はいないのではないかと思われる。筆者自身、正直なところ、2月からどこにいてもつねに緊張を強いられている感覚がある。家にいても、本当にはくつろげない。気を使いながら電車で仕事場に向かい、必要最低限の買い物をする。おそらくこの感覚は、かなりの人に共通しているものではないか。
そもそも、イレズミ・タトゥーのある客が「目障り」「怖い」という訴えは、1990年代にサウナやジャグジー、岩盤浴などの設備やレストランなどを充実させた温浴施設が増え始めてから目立つようになる。一方で、利用者が相対的に減って経営が厳しくなった公衆浴場なども、設備を充実させるようになった。この結果、身体を洗ってさっと湯につかる利用法から、リラクゼーションやレジャーとして、家族連れ、友人連れが長時間滞在をするようになった。そうなると、他の客の身体が気になる。「イレズミ・タトゥーを子どもに見せたくない」との苦情がフロントに寄せられるようになった。なかには、肌からインクの成分が溶け出す、との誤解をしている人まで現れた。
だが、現在、ある都内の温浴施設では、「密集状態を減らし社会的距離(ソーシャルディスタンス)を確保するため、リラックスラウンジ・レストラン・ロビー・コワーキングスペース・サウナ・喫煙室等の使用制限、フロントに並ぶ際の列間確保をお願いいたします」と述べている。これからもさまざまな工夫がこらされるだろう。
考えてほしい。各施設では三密にならないように利用客を抑制している。客自身が向かい合うのを避けている状態で、他人の身体にタトゥーが入っていることをどうやったら確認できるのだろうか? 客同士ができるだけ距離を保とうとするなかで、「怖いこと」は起こりえないだろう。
2020年に訪日外国人数を4000万人、2030年には6000万人との高い目標を掲げて、日本政府はインバウンド招致を急速に進めてきた。その反面、京都が代表的なオーバーツーリズム、温泉タトゥー問題、全裸で入浴する湯あみ着の導入など、解決を考えるべき問題を見て見ぬふりをして進んできた。今こそ、これまで置き去りにしてきた問題に向き合う時期に来ているのではないかと思う次第である。
Comments